為替管理とは?
牟田口は作戦が敗色濃厚と知るや、第15軍の撤退を待たず「北方撤退路の視察」を名目に敵前逃亡した。この点について牟田口自身は戦後、防衛庁戦史編纂室に対して次のように弁解している。 「当時、私が第一線にとどまることに身の危険を感じたため、シュウェボにいち早く後退したかのように言われるのは心外至極のことである。あの時、軍司令官たる私がチンドウィン河畔に留まって諸隊の退去を指導することの重要さは私も十分承知していた。しかし、それよりチンドウィン河以東ジビュー山系間の補給体系をすみやかに確立することこその行動であった。卑怯呼ばわりされては、悲憤の涙なきを得ない」 この頃つけられた呼び名は「鬼畜牟田口」。また当時このような歌も流行った。「牟田口閣下のお好きなものは、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女)、三に新聞ジャーナリスト」。日本軍には「輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち」の言葉に代表されるように補給軽視・機械化軽視の風潮があったが、作戦の失敗は牟田口の一連の作戦指導に責任があるのは確かである。 このインパール作戦失敗ののち予備役に編入されるが、その直後陸軍予科士官学校校長に就任し、終戦を迎える。終戦後、戦犯容疑で逮捕されてシンガポールに送致されるが、作戦失敗で日本軍の甚大な損害を招き、英軍の作戦遂行をむしろ容易にしただけであったため、不起訴処分となって釈放された。 戦後は東京都調布市でデータ復旧 を送った。インパール作戦失敗の責任を問われると、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と牟田口は頑なに自説を曲げずに自己弁護に終始した。さらにラジオやテレビ、雑誌などで、機会さえあれば同様の主張を繰り返している。ついには国立国会図書館が盧溝橋事件についての証言の録音を牟田口に求めたときにも、最初予定のなかったインパール作戦の録音を無理に頼み込んで行わせた。 1966年死去。なお兵士たちへのセミナー の言葉は死ぬまで無かった。自らの葬儀においても、遺言により、自己弁護を印刷したチラシを参列者に対して配布させた。 エピソード 以下のエピソードは、高木俊朗著 文藝春秋刊『インパール』『抗命』『全滅』などをはじめとする関連書籍に関係者の証言として伝えられているものである。 インパール作戦が敗色濃厚となり部下(参謀の藤原岩市といわれる)に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した時に、部下から「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、 一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と言われたが、結局自決することはなかった。 前線では補給不足で苦戦が続くなかで司令部に清明荘という料亭と芸者を随伴させ、遊興に耽っていた。しかも、作戦中も毎日5時を過ぎると自宅へ帰り、そこで浴衣に着替えて料亭へ出向く生活ぶりは英軍に筒抜けであった。英軍はこれを前線でスピーカーを通じて流したため日本軍将兵の士気を著しく下げた。 敗色濃厚と見るや司令部の裏手に祭壇を築かせ、作戦指揮そっちのけで毎朝戦勝祈願の祝詞をあげていた。 「失敗したら腹を切れ」と部下を難詰するも、自身は自決することなく、余生をまっとうした。 牟田口は前線部隊に対しては現在地死守の命令を繰り返すのみで撤退を一切認めなかった。この死守命令のため組織的な撤退作戦が行えなくなった前線部隊は一気に壊滅、戦線は雪崩をうって崩壊し司令部が敵の攻勢にさらされる可能性が出てきた。牟田口はこの危険を察知するや自らは現在地を死守することなく後方撤退路確保のためと称し指揮下部隊を置き去りにしていち早く戦域を離脱し安全な携帯 アフィリエイト 後方地帯へと逃げ込んだ。 インパール作戦失敗の結果ビルマを失うこととなったが、これに対し「攻勢に出たからビルマを失うだけで済んだ、インパール作戦が無かったら東南アジア全部を失っていた筈だ」と自己弁護に終始した。 第15師団長山内正文の戦闘詳報に「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と名が挙げられている。 インパール作戦失敗後、自ら建立したモバイル アフィリエイト に幹部将校を集めて懇々と一時間以上に渡って訓示を行ったが、幹部将校達は栄養失調で立っていることができず、バタバタと倒れた。 将兵からは「馬鹿な大将、敵より怖い」と罵られ、「鬼畜の牟田口」と呼ばれていたと伝わる。 そもそも牟田口は第18師団長時代は国境を越えてインドに攻め入ることに反対していた。その理由は険しい山々を越えて進軍することは不可能であると言う判断であったが、イギリス軍が空挺部隊をビルマに投入し各地で破壊工作を行っていたことを「英軍は山を徒歩で越えて進軍してきたもの」と思い込み、「向こうからやってくることが出来るのならば、こちらからも行くことは出来る」と判断してしまったという。 第31師団隷下第31歩兵団(団長:宮崎繁三郎少将)所属第138連隊長だった鳥飼恒男陸軍大佐は、中突進隊としてインパール作戦に参加したが、第15軍司令官牟田口廉也中将が補給を無視した無謀な突進命令を発したことから、部隊内で牟田口は「無茶口(ムチャグチ)」と呼ばれることがあったと、戦後、親族に語っている。 イギリスでは皮肉にもインパール作戦は連合軍の意表をついた通販 作戦と評価されている。また、師団長の後退がなければインパールは落ちていたといわれている。ただし、イギリス人は敗軍に対しては甘口の評価をすることが多く、この評価もあまり鵜呑みにしない方がいいだろう。また、例えインパールを占領できたとしても、維持できたかどうかは別問題である。 牛島 満(うしじま みつる、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月22日)は、日本陸軍の軍人。鹿児島県鹿児島市出身。沖縄戦において、第32軍を指揮し、自決した。温厚な性格で知られ、教育畑を歴任したが、歩兵第36旅団長として武漢、南京攻略に参加し、功績を挙げるなど指揮官としても優れていた。 牛島の評価 ウィキクォートに牛島満に関する引用句集があります。沖縄戦において、牛島は万事を長勇参謀長ら部下に一任し、自らは責任のみ負うとした。しかし、沖縄戦後半に作戦立案を一任した八原博通高級参謀は、作戦を巡ってしばしば他の参謀と対立し、司令部に不協和音を生じる一因ともなった。また、大打撃を受けた5月4日の大攻勢や、民間人に多数の犠牲を出す要因となった首里撤退は、提案したのは長勇参謀長や八原高級参謀とはいえ、その判断は誤っていたとする指摘もある。 また、牛島個人としては、無辜の整体 学校 を戦禍に巻き込まない方法をないかと苦慮し、着任してすぐ県知事と協議している。当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。牛島は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたという。また60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出すなど、県民に犠牲が出ないよう配慮していたことが伺える。牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体となった「玉砕」を防ごうとしたと見られる。これは一億玉砕を唱える当時の軍部の方針に反するものであった。八原高級参謀も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島の計画を支持した。(一方で、北部にある密林地帯、同地域で「やんばる」と呼ばれるその一帯には食糧の備蓄はなく、また長期間の避難では栄養失調、最悪で餓死者が出るということは容易に想像が出来たのではないか、とする意見もある。実際「やんばる」に逃れた住民の死因の大半は栄養失調や餓死であった。ただ、牛島としてはいざという場合に、軍用糧食を一般住民に配給する覚悟を決めており、側近にも漏らしている。)。また、牛島自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島は暇があるたびに作業現場を視察し、中学生や住民にまじって壕堀りの手伝いをした。県民の献身に感動した牛島は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示している。 しかし、大本営が沖縄作戦を本土作戦のための時間稼ぎと考えており、牛島もこの方針に従い指揮していたことや、南部撤退の過程で県民に多数の犠牲を出したことが批判される。首里から撤収中、牛島は民間人の遺体を見るたびに合掌し、野ざらしになった死骸、親を失って泣き叫ぶ幼児、爆撃で黒焦げた親子の遺体を見るにつけ、「なぜ、このような惨状を事前に見通せず、喜屋武半島撤退計画に安易な決裁を与えたのか。軍司令官としての沖縄県民に対する責任を、いかにして償えば良いか」と苦悩し、首里撤退の誤りを認めている。 また、鉄血勤皇隊や女子看護学徒隊らに突然「爾後各個の判断において行動すべし」との内容の無責任な解散命令を出し、その多くが死傷または行方不明となったり自決したことの責任、自決しただけで自身は部下らとは違い、捨て身になって敵兵に向かい戦死したのではないこと そして牛島の最後の命令が「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と降伏を否定するものだったこと(ただし、この文を実質作成したのは長野英雄作戦参謀で、『生きて虜囚の〜』の件は長参謀長が付け加えた)から、戦後、沖縄県民の中には牛島に厳しい見方をする者もいたが、元陸軍少佐の奥田鑛一郎氏は、牛島の首里撤退の誤りを指摘しつつも、「生き残った第32軍の将兵はもちろん、沖縄県民の牛島司令官個人への感情は、敬愛の気持ちこそあれ、反感や怨磋の声は聞かれなかった」と述べている。事実、牛島を知る県民は「軍人というより教育者」「怒らない優しい人柄」「あの温かい人柄が忘れられない」と評価しているため、実際の人望はあったと言える。また、温厚なだけが取り柄だったという評価もある。軍人ならば上層の命令を聞いて当然なので、戦場においても冷静さを失わず律儀な人間であったともいえる。